不職歴5年のKagamiです。
不食日記(2020年6月22日)
【朝】アイスコーヒー、ナビスコクラッカー3枚
【昼】カップ蕎麦、
【夜】なし
久し振りに日記を書きました。
固形物はほとんど取ってませんが、フルーツでプラム、スイカ、キウイフルーツをいただいておりました。
人類を救う霊性と食の秘密が面白いです、抜粋いたしました。
小食はどうやら、肉体や精神に影響を及ぼすだけではなく、霊性にまで影響を与えると書かれております。
修験道の道は聖徳太子が誕生した直後に生まれ続日本書紀に記録としてあります。
目次
- 修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)
- 陽勝という僧。
- また、白山修験道の開祖として知られる泰澄
- 修験道は、俗世に生きる人間が、即身成仏、すなわち生き仏になる道である。
- 仏教とは一言で現すと、「仏・法・僧の三宝を信奉する宗教である。
- 弘法大師も、完全不殺生の人であった。
修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)
深山幽谷(しんざんゆうこく)に籠もり、孤独と戦いながら、厳しい修行を積み、数々の奇跡的能力を現すようになった。
人々の病気を治し、雨を降らし、飢饉から救うなど、民衆救済に尽力した。
小角は松葉屋松の実をいつも口に含んでいていたと言われる。
松の実を食べると五感はもちろん、六感も鋭くなると言う説がある。
松葉や松の実を食することによって、暗闇でも見通せるようになり、5百メートル先を行くかすかな足音さえ聞き分けることができ、かすかなにおいも嗅ぎ分けることができたと言う。また空中を自在に飛ぶことができたと言われる。
この時代人里離れた山の奥深くに入って、修行する行者は多くおりました。
役小角の他にも陽勝という僧がおります。
陽勝という僧。
比叡山に入り、西塔にある勝蓮華院の空日律師(くうにちりっし)の弟子となった。
幼い頃から極めて聡明であったようで、経典や教義の講義を一度聴いただけで、全て理解をしてしまったという。
幼少は類稀れなる素質により、心の動きに異常がなく、周囲に巻き起こる動きには全く頓着しなかったようだ。ひたすら修行に励み、睡眠さえ全くとらず、横になって休むことすらなかったと伝えられる。
また、生きとし生けるものを哀れみ慈しんで止まなかった。貧しくて裸同然でいる人を見れば、自分の衣を脱いで惜し気もなく与えたり、飢えに困ってる人には、大してない自らの食い扶持を惜しげもなく施したりもした。
さらにシラミや蚊、虻(あぶ)などがたかっても、けっして追い払ったりせず、ただ満腹になって去るまで、吸うにまかせたという。
陽勝は厳しい修行の末、ついに1日なんと栗一粒を食するのみでした。
陽勝三十三歳の時何処かへと姿を消してしまう。
ところがこの後に幼少は度々縁ある人の前に姿を現している。
陽勝は法力を操り、空中を自在に飛行できる仙人となっていたのである。
陽勝が五十歳くらいになった頃の話である。東大寺の僧が、単身、金峯山に詣でたが、運悪く、深い山の中で道に迷ってしまった。
さまよい歩くうちに、持参していた米も水も尽き、飢えと渇きのためにほとんど絶命かけたとき、遠ざかる意識の中で、誰かが法華経を読書する声が聞こえた。
やっとの思いで体を起こし、声のする方を見ると、そこに陽勝が立っていた。
陽勝は僧の持っていた空の鉢と瓶(かめ)に向かって、何か呪文を唱えた。
するとたちまち、鉢には素晴らしい食べ物が満ち、鉢には清らかな水があふれた。
また、白山修験道の開祖として知られる泰澄
役小角に匹敵するほどの実力の持ち主であったといわれるが、彼もまた、五穀を断ち、主に松葉を食して修行を積むことで、ずば抜けた効験を現わした人物である。
雨乞いや病気平癒の祈祷を通じて民衆を救い、「越の大徳」と尊称され、慕われた。
やはり空中を自由に飛行したとされ、他の場所へ瞬時にして移動する、テレポーションのような術も体得していたと伝えられる。
修験道は、俗世に生きる人間が、即身成仏、すなわち生き仏になる道である。
そのためには、厳しい修行を積まなければならない。
「十界噸超の行」と呼ばれている。現代では「十界修行」とも呼ばれている。
これは迷いの世界あり、煩悩のかたまりである人間が、1段階から十段階の修行を経ることで、菩薩の世界へと移り、究極的には悟りを開いた「仏(ブッタ)」の域まで到達するというものである。
仏教とは一言で現すと、「仏・法・僧の三宝を信奉する宗教である。
仏とは、本来は釈尊を指していたが、後世になって、諸仏つまり神格化された救済仏も指すようになった。
法とは、達磨とか鈍磨などと音訳され、その語義については一定ではないが、要するに、仏の説かれた教えのことである。
僧とは、仏に代わって民衆に仏教の教理や実践を説き、衆生を指導教化する出家者の集団を意味する。
弘法大師も、完全不殺生の人であった。
そしてその食事は、極めて質素である。それは、彼の開いた高野山金剛峯寺で修行者に出される食事内容からも伺われる。
晩年の空海は、座禅に集中する 静かな日々を過ごすのだが、やはり穀気を断ち、やがて水さえも飲まなくなり、ついに息を引き取った。
しかし死んだのではなく、「入定」(にゅうじょう)したのであって、現在も生きて活躍していると信じられている。
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